2012年9月14日金曜日

カン

この前買ったお菓子のカンがいい感じ。スニフがいないのがちょっと残念だが…。

そういえば、先日スニフの本を買った。"Sniff's Book of Thoughts"って本。
http://www.amazon.co.jp/Sniffs-Book-Thoughts-Jansson-Malila/dp/1906838232
スニフに焦点を当ててくれるのが嬉しい。

「草枕」と治療

漱石は自分の神経衰弱の治療のために「吾輩は猫である」を書いたわけだが、「草枕」は主人公が治療のために旅をする話であるともいえる。

『ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。こうやって、ただ一人絵の具箱と三脚几を担いで春の山路をのそのそあるくのも全くこれがためである。』(第1章)

ここでいう”こう云う感興”とは『わざわざ呑気な扁舟を泛べてこの桃源に溯る』ことであり、『俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる』ことだ。その感興が薬になるという。

主人公は一体何の病であるのかは不明だが、山登りするほどに体は健康そうだし、主人公が気にかけることが他者との関係性に於けるいざこざに関わることばかりなので、やはり神経衰弱のような病気だろうと推測出来る。つまり、この主人公は漱石自身なのだろう。「吾輩は猫である」と同様、「草枕」もまた治療の書であり、「吾輩は猫である」の方はそれを書くこと自体が治療であったのに対し、「草枕」は内容自体が治療の過程の物語となっている。なので、「草枕」の方は現実の漱石にとってはただの空想であり、理想にすぎない。まさに「桃源」。ちなみにこの物語の舞台となっている那古井とは、熊本の小天のことで、「草枕」は漱石が実際に小天に行ったときのことを元に書かれた物語と言われている。(第7章の冒頭に『もとより別段の持病もない』とあるが、温泉での話であることから、これは体の方だろう。ちなみに漱石が胃潰瘍で入院するのはだいぶ後)

『すこしの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願。一つの酔興だ。』(第1章)
わざわざ”非人情の天地に逍遥したい”という願望があるということは、人情に関わるいざこざで神経を病んでしまったのだろう。
『苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々した。』(第1章)
と、自身の情にも飽き飽きしている。

ところで、第4章に白隠和尚の「遠羅天釜(遠良天釜)」が出てくる。この「遠羅天釜」は、白隠が自分の病気(禅病)を治すために用いた方法論(軟酥の法や内観の法などを白幽子という長老に授けられる話)などが書かれた「夜船閑話」とともに、養生の書。わざわざ物語の小道具として「遠羅天釜」を持ってくるあたり、「草枕」の漱石にとっての意味合いを暗に示しているようにもみえる。「草枕」は漱石版「遠羅天釜」、あるいは漱石版「夜船閑話」という側面もありそうだ。

さて、神経衰弱というものが現在のどの病気のことを指すのか定かではないが、人情のいざこざから来るということは、神経過敏から来る何かだろうか。詳しくは分からないけど、その人情なるものを問題としない技として、「非人情」というものをひねりだしていく。つまり、非人情とは治療の為の技術であり、知恵であった。

その非人情によって治癒したのかどうかは書かれていないが、ラストにあれだけ無神経なことが言えるのだから、神経の病は癒えたのかもしれない。

2012年9月13日木曜日

9/13


なんか今ごろになってまたいろいろ出来てきた。イチジクまで出来た。

草枕

漱石の「草枕」は何度読んでも面白い。そして掘り下げようと思えば無限に深く掘り下げられるように見えるほど底が見えない。というわけで、また「草枕」を読んでふと思ったことなど。いつも第1章に関することばかり書いてる気がするので、珍しく第6章について、なんとなく書いてみた。


『余が心はただ春と共に動いていると云いたい。(…)余の同化には、何と同化したか不分明であるから、毫も刺激がない。刺激がないから、窈然として名状しがたい楽(たのしみ)がある。』(「草枕」第6章)

漱石の「草枕」の第6章の前半部分は同化に関する内容になっている。同化とはつまり、自分が何かと一体化してしまうことをいう。

まずは、モノとの同化について語り(『彼らの楽は物に着するのではない。同化してその物になるのである』)、その後、『一物に化するのみが詩人の感興とは云わぬ』ということで、現象などの抽象的な感覚と同化する話となる。そして、「動き」そのものと同化し、それを「春」と同化したと表現することになる。具体的なモノとの同化から、抽象的な現象との同化へと、深めていく。そして主人公が体験したのはこの抽象的なものとの同化だ。

『われはいかなる事物に同化したとも云えぬ』とあるように、ここではモノとの同化ではなく、『何と同化したか不分明である』ほどに「春」と同化している。『余が心はただ春と共に動いている』とは、時間の流れである季節そのものと一体化(同化)した状態だろう。

ところで、なにものかと同化するということは、それまで世界内に"独立"して存在していた自己が消えるということに他ならない。ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」にこんなくだりがある。
『主体は世界に属さない。それは世界の限界である』(5.632)
『世界と生とはひとつである』(5.621)
『私は私の世界である』(5.63)
『思考し表象する主体は存在しない』(5.631)
これらはウィトゲンシュタインの独我論をよく表す部分だが、要するに主体が世界と同化しているのだ。ウィトゲンシュタインの独我論に於いては、世界の中に主体があるわけではなく、世界そのものが主体となっている。主体と世界が溶け合い、独立した主体は消え、主体は世界そのものとなる。(言うまでもないが、このウィトゲンシュタインの場合の同化は、モノや事態などとの同化の話ではない)

さて、「草枕」での同化とは主体がなにものか(モノとか現象とか)と一体化すること。一方ウィトゲンシュタインの独我論もなにものか(この場合は世界そのもの)と一体化すること。そして、ウィトゲンシュタインの独我論では、主体が消え(世界の中の主体、世界に所属する主体、という観点が消え)、主体=世界となる。ところで、「草枕」では「主体(自己)=なにものか」となる。ということは、こちらも主体が消えることになる。自己がなにものかと同化するとは、それまで独立して存在していた自己が消えることだ。主体が消えるということに於いてこの「草枕」の同化もまたウィトゲンシュタインの独我論と共通する。(とはいえ、「草枕」の方の同化はウィトゲンシュタインの独我論のように「なにものか」が自己の限界を定めるということはなく、それと並列して存在する自己の視点も存在するようだ。つまり「自己」⊃「なにものか」という形)

「草枕」の『余が心はただ春と共に動いている』という境地は、このウィトゲンシュタインの独我論で捉える「自分=世界」と同じような感覚を、文学的に「示す」形で表現したものともいえるのではないか。

たとえば、自己が消えた境地がこのように表現されている。
『余は明かに何事をも考えておらぬ。またはたしかに何物をも見ておらぬ。わが意識の舞台に著るしき色彩をもって動くものがない』
「何者をも見てはおらぬ」とは、何者かを見る主体が消滅していることに他ならない。何者かそのものになっているのだ。

また、
『あらゆる春の色、春の風、春の物、春の声を打って、固めて、仙丹に練り上げて、それを蓬莱の霊液に溶いて、桃源の日で蒸発せしめた精気が、知らぬ間に毛孔から染み込んで、心が知覚せぬうちに飽和されてしまったと云いたい。』
「飽和されてしまった」とは、まさに春と同化してしまった境地を表している。ここではもはや世界から独立した「自分」(自己)なるものは消え、主体が世界そのものと化している。

ところが、主人公は自己が消えたこの同化の状態を絵にしようとして試行錯誤しているときに、このようなことを考える。
『色、形、調子が出来て、自分の心が、ああここにいたなと、たちまち自己を認識するようにかかなければならない。』
と、どこまでも「自分」の存在にこだわる。作品内に自己を認識しようにも、自己が消えている境涯を表すのだから、難儀するのは当然なのだ。絵だけではなく、音楽を思い浮かべたり、詩にしてみたりと、いろいろと試してはみるが、結局は『自分が今しがた入った神境を写したものとすると、索然として物足りない』と不発に終わる。芸術がそもそも「自分」の表現なので、「自分」が消える境地は表現不可であったのかもしれない。あるいは、禅の書など(書に関しては「草枕」第3章で触れられている)のように自我の消え去った表現を試みようとして失敗しただけなのかもしれない。いづれにせよ、主人公は『何と同化したか不分明である』ほどに『抽象的な興趣』を芸術で表現出来ず仕舞い。「草枕」はだいたいこのようなトホホなパターンが繰り返される。「草枕」の微妙な面白さはいつもこんなところにある。「吾輩は猫である」からの、いや「自転車日記」からの漱石のお家芸。

2012年9月8日土曜日

ジャズ

思いついたことをつぎつぎにメモっていくのがビバップ。
メモをもとに起承転結をつけるのがハードバップ。
起承転結つけられたメモを編集していくのがフュージョン。
文字でメモする代わりに絵を描いてしまうのがフリージャズ。
メモすることがないので踊ってしまうのがアシッド・ジャズ。
パソコンやスマートフォンでメモるのがフューチャージャズ(Nu-Jazz)。