2010年2月23日火曜日

ヒヨドリ、メジロ




■花をいくつか買って来て玄関先に置く。
手前の白い花はいい匂いがする。

■庭にミカンを置いたらヒヨドリとメジロが食べてた。

2010年2月22日月曜日

電気ケトル



■昨日実家に帰ったときに聞いたんだが、小学6年生のときに同じクラスだった同級生が先月亡くなったそうな。
同級生で、もう亡くなった人を何人か知っているけど、他にも沢山いるんだろうなあ…。

■この前買った電気ケトルが届いた。
これは意外に便利。

■最近デジカメの充電電池がすっかり駄目になったらしく、どんなに充電してもあまり使えない。
ズームするだけで電池切れになりシャッターを押せなくなる。
だもんで庭のスズメも遠くからしか撮れない。
まあ、普通にフィルムカメラの一眼レフのズームで撮ればいいんだが…。

■22222のゾロ目だとか騒いでるので今頃知ったのだが、今年は平成22年だそうな(笑)。
「平成」なんて今どき使うことが全く無いからすっかり忘れていた。
こんな紛らわしい年号はもう廃止してしまえばいいのに。

2010年2月21日日曜日

インコ

これすごい。
『猫を呼んで起こすインコ』
http://www.youtube.com/watch?v=PcKzzU6bFRU&feature=related
ほんとにネコの名前を呼んでる(笑)。

こちらも同じ人のもの。面白い。
http://www.youtube.com/watch?v=5qq0HjGN8MM&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=oKSod0pkQqc&feature=related

2010年2月20日土曜日

自由が丘

■電気ケトルを買いに自由が丘へと行ったのだが結局はネットで買うのであった。
自由が丘ではいつものように雑貨屋巡り。
メモパッドなどを買う。
ひさびさにドンク・ベーカリーカフェにも入った。

自由が丘の古書店にて「牧場の本」(ヴァッガール著/アルプ選書)という本を買う。
昭和35年(1960年)発行。
本のたたずまいが非常に美しい。

■僕は「なつかしい」と感じるのが好きなんだが、脳科学者によると、なつかしさを感じる力というのは鍛えることが出来るそうな。
なつかしいものを見たりする時間を増やせば増やすほど、なつかしいと感じる脳の回路が大きくなり、なつかしさを感じる力が大きくなるとか。

2010年2月18日木曜日

エッセイ

■中学生のとき片岡義男の文庫本を何冊か持っていた。
片岡義男の小説には特に興味が無かったが、気分だけは伝わってきて、それが心地よかったのを今でもおぼえている。
しかしながらストーリは全く覚えて無い、ってほどに興味が無かった。
ところがエッセイ本となると俄然面白くなる。
この作家のエッセイは植草甚一直系で、どんなものでも70年代宝島的な独特の雰囲気を持っている。
そんなわけで片岡義男のエッセイ本は今でも大好きなのだ。

ところで昔の片岡義男の文庫といえば、角川文庫の赤いデザインのもの。
これが今は何故かすべて絶版(角川文庫だけで100冊以上あるらしい)。
せめてエッセイだけでも全部文庫で復刊してくれないものか(ほとんど持ってるけど)。
エッセイは今でもぜんぜん通用する内容だ。

で、その片岡義男の最新エッセイ本「ピーナツ・バターで始める朝」(東京書籍)を今読んでるのだが、これがまた面白い。
いい意味で切り口が昔からぜんぜん変わらない。
ここに「草枕」に関するエッセイも載っていて、これがまたなんとも素晴らしい。
「草枕」の読み方は僕とはぜんぜん違うけど、そんなことは関係無いのだ。
那美さんが見せた「ほんの一瞬の純粋な心の動き」について書いてある。
僕は那美さんの心にフォーカスしたことは一度も無い(実際そんなことはどうでもいい)。

2010年2月17日水曜日

紀伊国屋

■自分(書き手)の好きなものについて書いた文章が好きだ。
その手のものはどんなものでも面白い。
だけど実はそういう文章というのはそれほど多くない。

■駅前の本屋にて思う。
本、多すぎ。
なんでこんなに沢山の種類の本が出てるのかとふと思った。
この中で読む価値のあるものはどれくらいあるのだろう。

■新宿の紀伊国屋にて本を買う。
紀伊国屋なんてひさしぶりだ。
昔は毎日のように通ってたもんだが、最近はついジュンク堂に吸い寄せられる。

2010年2月15日月曜日

2/15

■昨年の後半あたりからどうも体調を崩し、ずっと具合がおかしい。
こうも変だとそろそろ死ぬのかなあなどと思ったりもするが、そんなこと言ってる人にかぎって迷惑なことに長生きするものだ、なんてことが北杜夫のエッセイに書いてあったな、そういえば。
ところでもうすぐ死ぬとしたら、最期の最期に何を聴こうかということが問題になってくる。
そんなもんは一番好きなCDを聴けばいいわけなんだが、これがなかなか決まらない(笑)。
とにかく大問題なのだ。
文字通り一世一代の大問題(笑)。
大好きなチャーリー・パーカーにしようか、いや、セシル・テイラーか、ストラヴィンスキー「火の鳥」か、ハンク・ウィリアムスか、あるいはアール・クルーか、はたまたパーシー・フェイスか、やっぱりここはフランク・ミルズの「街角のカフェ」か、いやジョン・ルーリーにしようか…、やっぱり安東ウメ子か、あるいは厳かにバッハか、いや、まだ他にも、…などなど、ぜんぜん決まらない。
決まらないので当分死ねないわけなのだ。
まあ、特に死ぬ予定もないのだが。

■最近は毎日寒いくせに庭に来るスズメは何故か妙に元気いっぱいだったりする。
特にここ最近は馴れ馴れしく、僕が庭に出ても逃げる気配すら無く、物欲しそうにこちらをじーっと見てる。
しょうがないので米粒をあげたりするのだが、みんなで一気にワッと食べて、また物欲しげな顔でこちらを見る。
スズメのエサのなる木でもあったら庭にたくさん植えてやるのに。

2010年2月14日日曜日

SOUP STOCK


■SOUP STOCKにてスープカップをもらった。
シールを集めるとカップがもらえるというキャンペーンをやってて、それの引き換え。
SOUP STOCKにはだいたい週に2回行く。
スタバにはほぼ毎日行く。

■吉祥寺のリンデでココアを飲む。
最近はスタバでもココアばかり飲んでいる。
ココアは暖かさが長続きする気がする(気がするだけだろうが…)。
とにかく毎日寒すぎるのだ。

■『笑う犬2008秋 Vol.2』というDVDを見る。
「生きる(テリーとドリー)」とか、超おもしろい。
昔の「笑う犬」のDVDとかも見たくなった。
特に「パタヤビーチ」と「生きる(テリーとドリー)」が見たい…。

2010年2月13日土曜日

フクロウ

http://torikko.exblog.jp/8419385/
たまたま発見したカラフト・フクロウの画像。
オッサンにしか見えない(笑)。

http://hrknit.blog64.fc2.com/blog-entry-39.html
これもたまたま発見した。
昼寝してるフクロウ。
コノハズクだろうか。
かわいい。

■今月号の「イラストレーション」に、かがくいひろし氏の絵本のラフがそのまま絵本として綴じられて付録として付いている。
ラフがこういう形で出て来るのは珍しいのではないか。
この作家さんの場合、ラフの絵の方がいきいきしてて面白いように感じる。

■今日読んでた本にこんなこと書いてあった。
『めぐりつづける12の音の作り出す響きにしっかりと足を縛りつけられていて、いくら羽ばたいたところで、その音響感から外に飛び出すことが出来ない』(小倉朗「現代音楽を語る」岩波新書)
これはシェーンベルクの12音技法による曲のことを書いてるわけだが、なんとも的確に言い当てている。
12音技法というのはある意味フラットな平面みたいなものであり、長く聴きつづけていると図が地に反転することがある。
音楽的には正反対のアンビエントに近づく不思議…。

2010年2月9日火曜日

キャンディーズ その2

■夢と幻覚はどのように違うのだろうか?
そのどちらも、物質は無いのに「見える」という状態なので、目から入った情報を見るのではなく脳内にある情報が見えるということになる。
逆に言えば、脳内に無いものは見えない。
幻覚というのは目を開けながらみる夢(白昼夢)みたいなものだろうか。

現実の物質を見るということと夢を見るということの両方が「見る」という言葉でくくられることは何だか紛らわしい。
だって現実の物質を見たことと「夢、幻覚、幽霊など」という脳内だけの現象を見たことのどちらも「見た」という事実には違いないのだから。
脳の中だけの情報を見るときには「ミル」とかに統一してくれれば意外に話が分かりやすくなるかもしれない。

昔、僕がカラス天狗を見たと言ったら、現実にカラス天狗が現れてそれを見た、というふうに取った人が多かった。
僕は「見た」事実には変わりはないので何も訂正しないでいたのだが、実際には目を開けながら見えた夢みたいなもの、つまり幻覚だったのだ(当たり前だ…笑)。
つまりは脳内にある情報が絡み合って出てきただけのことで、ただの脳内現象(最近はわざわざこういうことを言わないと話が通じない人が増えた)。
昔から体調の悪いときには変な幻覚を見ることがあるのだが、最近はそういうことも無くなった。
脳が変化したのかな?

白昼夢や幻覚などは比喩的に「あちら側の世界」と言うことがあるが、本当に(というか現実に)あちら側の世界なんてものがあるわけではない。
それはその人の脳内にあるものにすぎない。
あちら側というのを設定した時点ですでに「物語」になっている。
ところで無理矢理あちら側へと行くには想像力でもって行くしか方法は無い。
想像力と思い込みによってあちら側へと行くことが出来るが、それらの技術は最近では洗脳技術として一般に知られるようになったようだ。

ところで夢というのは目を使わずに見ることが出来るものであるということは、盲目の人も夢を見ることが出来るということになるのではないか。
でも一体どんな夢を見るのか?
三次元の物質をビジュアルとして見たことのない人の夢とは、一体どんなものなのだろう?
目の見える自分にはいまいち想像出来ない。


■昨日から何故かキャンディーズにすっかりはまってしまい、Youtube見まくってるわけなんだが…(笑)。
なんで全部知ってるのか不思議でしょうがないんだけど、たぶんドリフに毎回出てたのでそれで覚えてるのかと。
森田公一作曲のこのデビュー曲とか、なんだかとてもいい感じ。
「あなたに夢中」(スーちゃんかわいい)
http://www.youtube.com/watch?v=jRD9XIySHDY&feature=related

ちなみに一番なつかしさを感じたのはこの曲。
「哀愁のシンフォニー」(スーちゃんかわいい)
http://www.youtube.com/watch?v=oeBZ7Mp0km0

2010年2月8日月曜日

キャンディーズ

■思い込みと錯覚を排することは非常に難しい。
なぜなら、この世に生きてるかぎり必ずなんらかの思い込みを土台にしてるわけだし、なんらかの錯覚のもと物事を判断しているわけで、それらを排するとは脱世間で悟りを開くといったようなもんなのだから。
あるいはデカルト的懐疑論を徹底するようなもんなのだから。
ところで、音楽にしても絵画にしても文学にしても、それら思い込みと錯覚を持ったまま接すると当然のことながら狭く貧しい鑑賞となる。
しかしながら個人が感じるクオリアは狭いとか貧しいとかということとは別次元の問題で、思い込みや錯覚を持ったままであっても垂直方向にはいくらでも感覚を掘り下げることが出来る。
好き嫌いというものもこの方向性での話だろう。
ということは、好き嫌いというのは思い込みと錯覚の産物か?

昔から不思議に思う感覚で「なつかしさ」というのがある。
とある音楽になつかしさを感じる場合、その音楽への評価は上がるだろう。
昨日ふとしたきっかけでキャンディーズをYoutubeでいろいろと見てたのだが(笑)、デビュー曲からラストの曲まで全部知ってて驚いた。
しかも、どれも聴くのは小学生時代以来で、妙になつかしい。
このなつかしさのせいなのか、どれもやけに素晴らしい曲に思えた。
なつかしいものに対する評価が上がるというのは一体どういうことか。
なつかしいという感覚を評価してるのであって、曲そのものを評価してるのとは違うのかな。

ところでキャンディーズをYoutubeで見るきっかけとは何だったかといえば、「ドリフの早口言葉」での志村の振り付けってキャンディーズの「やさしい悪魔」が元ネタだったよなあ、なんてことを思い出したことなのであった(笑)。

ドリフの早口言葉での志村の雄姿(3:40あたりから)
http://www.youtube.com/watch?v=egTxRWXQI84&feature=related
キャンディーズ「やさしい悪魔」(スーちゃんかわいい)
http://www.youtube.com/watch?v=6Xh5I6MGIow&feature=related

2010年2月7日日曜日

経堂、豪徳寺

■新宿マインズタワーのスタバに行く。
近くに代ゼミがあるからか、必死に勉強してる人が多い。
すっかり自習室。

■経堂を散歩してたんだけど、風が強くて寒すぎ。
途中、たいやきが売ってたので食べたら熱すぎて舌がピリピリする。
体は寒くて舌だけ熱い。
ユリの木通りをまっすぐ歩き豪徳寺へ。
古書店で本を買い、モスに入って暖まる。

■「草枕」が「我輩は猫である」などと同じようなユーモア小説であることは、たとえば第12章のこの部分でよく分かる。
『余は画工である。画工であればこそ趣味専門の男として、たとい人情世界に堕在するも、東西両隣りの没風流漢よりも高尚である。社会の一員として優に他を教育すべき地位に立っている。詩なきもの、画(え)なきもの、芸術のたしなみなきものよりは、美くしき所作が出来る。人情世界にあって、美くしき所作は正である、義である、直である。正と義と直を行為の上において示すものは天下の公民の模範である。』
この、えもいわれぬおかしみというか、しゃちほこばった阿呆らしさというか、諧謔というか、なんともいえぬ馬鹿馬鹿しさこそ、「草枕」の真髄だろう。
今までいくつかの「草枕」評論を読んだことがあるけど、その部分に言及したものは見たことが無い。

2010年2月6日土曜日

ずっと家の中

■あまりの寒さに今日は一歩も外に出ていない。
ずっと家の中。
とはいえ実は家の中で過ごすのは結構好きなのだ。
だいたい、子供の頃から家の中で過ごすことは好きだった。
家の中で過ごすのが好きな子供は家の中で何して過ごしてたのかといえば、マンガを描いたりオモチャを出して遊んだりラジオ聞いたりプラモデル作ったりマンガ読んだり切手いじったりレコード聴いたり、…やりたいことばかりで意外に忙しいのだ。
さて今日ずっと家の中に居て何してたかといえば、本読んで絵を描いてラジオを聞いてCD聴いてメカ・タマゴローの動作確認をして、まあ、それだけ。
子供の頃とたいして変わってない。

http://www.youtube.com/watch?v=WgFIne7uDH8
スズメが順番にごはんを食べている…(笑)。
この公園は楽しそうだ。

2010年2月5日金曜日

スズメはいろんな鳴き方をする


http://www.youtube.com/watch?v=S9xqUQyZHNo&feature=player_embedded
■この動画は本当に秀逸。
スズメはいろんな鳴き方をすることが分かる。
ずっとエンドレスで流していたい。
小鳥の声ほど落ち着くものは無い。

2010年2月4日木曜日

森田たま「苔桃」


■チャーリー・パーカーを聴きながら吉祥寺の普段歩かないような道をぶらぶらと歩く。
パーカーさえあれば他は何もいらないのではないか、なんて感じる。
ハンク・ウィリアムスを聴いてるときはハンク・ウィリアムスさえあれば何もいらないなんて感じるんだから、いいかげんなもんだ。

■スタバで森田たま著「苔桃」(東方新書)を読む。
昭和30年発行のこの本。
本としてのたたずまいが実に美しい。
本の魅力の半分くらいはその装丁にあるのではないか。

iPadやキンドルなどが出て来て、日本の出版業界は守りに入ってるようだが、要は本という物質そのもの自体を魅力的に作ればいいのではないか。
データだけとは違った、モノとしての魅力。
それには装丁がとても重要になってくる。
そうなるとデザインだけじゃなくて、モノとしての存在感も大切になる。
たとえ安っぽい造りのものでも、アメリカのペーパーバック(しかも昔の)のようにその存在自体が魅力的になるように作ればいい。

2010年2月2日火曜日

庭が雪で真っ白


■ニューヨークで青信号のマークだけを集めた街角アートがあるそうな。
http://nyliberty.exblog.jp/12746861/
パリのマークはなんだか余裕をかましててオシャレっぽいが、そのとなりの東京のマークは何やらセカセカと急いでるようだ。
たしかに東京では誰もが意味も無く急いでいる。
青信号マークは「図」だが、こうやって置き場を変えると「絵」になる。
図とは説明で、絵とは表現。
同じものも見せ方を変えるだけでまるで違ったものになる。

■庭が雪で真っ白。
野菜たちもすっかり埋まってしまった。
ただでさえいまいち発育不良だったのに、これではほぼ絶望的か。
最近暖かくなってきて嬉しかったのに、なんでまたこんなに寒くなるのか…。

■2008年にハンク・ウィリアムスの未発表発掘音源がたくさん出てきて(「The Unreleased Recordings」「Gospel Keepsakes」)、カントリー・ファンは大騒ぎだったわけだけど、今日は朝からそれを聴き、スタバでも聴き、夜になっても部屋で聴いているのだ。
春が近づくとハンク・ウィリアムスが聴きたくなる。
ハンク・ウィリアムスとチャーリー・パーカーとセシル・テイラーのCDさえあれば無人島でも楽しくやっていけるのではないか。
あ、あとストラヴィンスキーと古今亭志ん生も(笑)。