2009年5月31日日曜日

文系理系

http://r25.jp/b/report/a/report_details/id/110000006994/part/2?vos=nr25mn0000001
↑mixiニュースでリンクされてた記事。

文系の人とか理系の人とかいうのがほんとにあると思い込んだ話は意外に多い。
この手の迷信は血液型占いや星座占いと大差ない。
なにか無理矢理に物語という型に押し込めてそれで人を理解/納得しようということだろうが、この手の発想は最終的には人もマニュアル化できるという考えだろう。
しかしながら僕は、分からないものは分からないものであると対象化するところからしか理解しようという意志は生まれないと考える。
他人というのは、最終的にはよく分からないものだ。
で、分からないものであるからこそ、それを分かろうとする。
分からないものであると分かってないと、分かろうとすること自体をしないのではないか。
ところで、型とはつまり形式のこと。
内容を形式に当てはめる場合、形式のバリエーションが少なければ少ないほど内容はゆがんでしまうだろうし、抜け落ちる部分も出てくるだろう。
人の内面は宇宙の大きさに等しいくらい暗黒が広がっているのだろうから、それを既成の形式に当てはめることなんてどだい無理な話。
だから人を理解するときに型に当てはめることが 思考停止に思えてしまう。
文系・理系と分けることにより誰かを分かったような気になるということは、いくら便宜上とはいえあまりに無意味。
ましてや自分を文系・理系と分けることなど、自分の盲点を増やすだけだろう。
なんてことを、上のリンク記事を読んで思ったのであった。
だからこの記事はすべてが馬鹿馬鹿しく感じられるし、この手の日常会話なんかも、終わってから疲れがドッと出たりなんかする。
・・・こんなこと書くと僕は相当気難しい人だと思われてしまうかもしれないが、実際は極めて温厚で物腰が低くてオープンで物分かりのよい好人物です(←取ってつけたかのようだ・・・。まあ実際取ってつけたんだが・・・。)。