2009年7月15日水曜日

寝起きにセシル・テイラー


■今日の収穫。
トマト。

■今日本屋でちらっと立ち読みしたクラシック音楽関係の本に、「モダン・ジャズを早朝に聴いても気分が出ない」なんて書いてあった。
おいおい。
僕は寝起きにセシル・テイラーを普通に聴いたりしてるんだが…。

で、この言葉をもう一度よーく見てみる。
『モダン・ジャズを早朝に聴いても気分が出ない』
要するにこの人、モダン・ジャズは「気分を出すもの」だと考えているのだ。
気分を出すものということは、ムード音楽ということだろう。
この人にとってのモダン・ジャズとはムード音楽のことなのだ。
たしかにムード音楽としてジャズを聴く人は多い。
寺島なんとかという人が勧めるジャズの聞き方だ。
白人の美人女性のヴォーカルものとか、澤野商会レーベルのピアノトリオとか(僕はこれらを全く聴かない)。
よくCDショップでおじいさん達がこういうのを漁っているのを見かける。

さて、もういちどその言葉に戻るけど、『モダン・ジャズを早朝に聴いても気分が出ない』ということは、夜あるいは深夜なら気分が出るということだろう。
で、そのモダン・ジャズで夜に一体何の気分を出そうとしてるのか…。
あるいは、「モダン・ジャズの気分」なるものを想定しているのだろうか。
やっぱり夜で、どこかの地下にあるバーで、照明はやや暗めで、タバコの煙がモクモクしてて、酒があって、奇麗な女性がピアノを弾いてて、みたいな感じか(こういう所に行ったことが無いのでこのくらいの想像しか出来ないのが情けないが…)。
朝っぱらから、裏の林から小鳥の声が聴こえ陽の光がたくさん入ってくる明るい部屋でセシル・テイラーってのはやはりモダン・ジャズの気分じゃないってのか。
というかセシル・テイラーって選択がそもそも間違ってるのか。

ちなみにこの言葉は前書きに書いてあって別に本文とはたいして関係無いようなのだが、つまり音楽には適切な聴き方がありますよってことで、その適切ではない聴き方の例として早朝のモダン・ジャズの話が書いてあったのだ。
トイレでグレゴリオ聖歌を聴くとか、バーでミサ曲を聴くとか、コンサートホールで尺八とか、そんな例もあったような気がする。
ってことは、新宿しょんべん横町の屋台でモーツァルトとか、葬式に植木等とか、エベレストの山頂でハワイアンとか、そういうのもだめなんだろうなあ。